映画『浅田家!』感想~スマホ時代の写真の価値とは~
映画『浅田家!』を見てきた。
偶然にも、この映画の公開が発表される一週間前に私は初めてカメラを購入した。
発表されたときは久しぶりのニノの映画のテーマが自分が始めたばかりの写真とあって一年後が楽しみでしょうがなかった。
それ以外にもいくつかの偶然が重なり、
観に行く予定だった日には「第36回ワルシャワ国際映画祭」にて、最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)を受賞したことが報じられた。
そんな縁を感じながら私は映画『浅田家!』を観に行った。
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この作品は音楽や映像に特別迫力があるだとか、絶景の写真が映るといった作品ではない、
ただ「自分にとって大事なものを大事にしようとする」作品だったから、
映画館という場で大切にして観ることがとても意味のある作品だったと見終わった私は感じている。
扱うテーマは家族写真。
だが、家族という存在が人間にとっていちばん身近であたりまえになりやすい存在というだけで、家族の絆に終始する映画ではない。
それよりも、
過去現在に関わらず「この時間がずっと続いてほしい」、
「これだけは忘れたくない、ずっと大切にしたい」という経験がある人にきっと響く。
主人公政志は、卒業制作のテーマ「一枚の写真で自分を表現する」をきっかけに
「一生で一枚しか写真を撮れないとしたら自分は何を撮るか」を考え、
結果”その家族をもっとも表すような写真”を撮ろうとする。
ただの記念写真ではなく、”その人をもっとも表す写真”であるところに、写真集「浅田家」の意味があると私は思う。
写真集「浅田家」は一見すると家族のコスプレ写真だ。
どうして「偽り」のコスプレがその家族をもっとも表すのか。
それは「なりたい姿」にこそ、その人の心のいちばん深くにある思いが表れるからではないだろうか。
いちばん深くにある思いとは、その人が大事にしたいもの、大事にしてきたもの。
その究極にあるのが、きっと遺影写真だ。
コスプレは世間一般にくらべて”変わっている”ということを表現しているのではなく、コスプレという演出を加えることによって撮影日が、普段あたりまえに感じているお互いへの思いが形になった記念日へと変わる。
ありふれた日常を形にする方法はいろいろあるが、その浅田さんの演出が「普通じゃない」と見る人に感じさせたところに、作品としての価値があるのだろう。
映画には政志の家族以外にもさまざまな形の家族が出てくる。
けれど、必ずしも「家族全員」が出てくるわけではなく、今はいない存在、あるいは今は存在しているけどいつか消えてしまう存在、いろんな家族の形がある。
すべてに共通するのは「心の中に残したい存在」があるということ。
人間って一緒にいればそれが当たり前になるし、いなくなったとしても時間とともにいつかはそれを受け入れる。
一緒にいてもすべての記憶を残すことはできないし、いなくなったら思い出すこともだんだんと減っていくかもしれない。
きっと消えていくのが人間の必然だからこそ、「残したい」と思うのだ。
消えていくことを実感したとき、そのあたりまえは特別になる。
そして、そういう消えてしまう記憶を形として確かなものにするために”写真”がある。
写真家とは、みんなが気づいていないあたりまえの中に「特別」を探す仕事なのかもしれない。
浅田さんが目指した「なりたかった写真家」の姿とは、
人の心の中にある大事なものを、自分の写真によって形にする”写真家”だったのではないだろうか…。
私が冒頭で述べたカメラを買ったきっかけは、
サークルをきっかけに始めた登山でスマホでは収めきれない風景を撮りたいと思ったことだった。
それ以前は、高校生の頃から手にしたスマホで、過ぎていってしまう時間と楽しかった思い出を残したいという思いで大好きな部活の仲間の写真をよく撮っていた。
スマホがものすごく発達した現在、より手軽にたくさんの情報をカメラで撮影し、たくさんの人と共有することができる。
写真以上に情報が多い動画も共有ができるようになった。
でも、それはその瞬間に価値を感じて残したいというよりも、一時的に消費するものになっているような気がする。
あたりまえに写真を撮りすぎて、どんな写真を撮ったかも覚えていない。
写真を撮ることが”あたりまえ”になって、一枚の写真に込められる思い入れのようなものが薄れているのではないだろうか。
記録として単に残すだけなら手軽なスマホが最も適しているといえるかもしれない。
ただ、写真を撮ることで残したいものが、何かに対する”思い”であるとするのならば、きっと後になって何かを自分にもたらしてくれるような写真は、
その”思い”が込められた写真だろう。
自分は、何を大切にして生きていきたいのか、
私は今、自分が大事だと思うものを大事にできているだろうか…
日常の中で、自分にとって大事にしたいと思うものを見失わないように、
”なりたい姿”になれるように、
そのための一つの手段として、私はこれからも写真を撮りたいと思う。